何気なく聞いていたテレビのニュースで「そよ風のように街に出よう」という障害者解放運動の雑誌が終刊になることを知った。20代の後半に、当時住んでいた愛媛県松山市で身体障害者の介護をするようになってから読み始めた雑誌です。
そよ風のようにまちにでよう⑦

 当時は人里離れた所に施設が作られて、成人すると親元から離れてその施設で障害を持った人は介護を受けながら生活する人が多くいました。私は休日に、まだ未就学の娘を連れて仲間と一緒に施設を訪問していました。その時に入所者の女性たちが「喫茶店や映画館へいってみたい」と言いだし、彼女たちが未だ一度も利用したことがないことを知り驚きました。

 そして、車いすを押して街に出て喫茶店へ行きました。「車いすの方はお断わりします」とほとんどのお店から言われて、障害者に対する社会の現実をしりました。何度も行政交渉(松山市役所)を行い、街頭でビラをまき喫茶店や映画館への出入りが出来るように、自立を求める仲間たちと行政指導を求めました。その市役所ですら、少しでも交渉時間が閉庁時間を過ぎるとエレベータを停止してしまいました。エレベータの問題が解決すると、次は出口の自動ドアが閉ざされて、遠回りをして外に出されました。
 車いすを押しながら「この社会は元気な人のためにしかつくられていない」ということを実感しました。こういうときに出会い、全国各地に広がった障害者解放運動の雑誌=バイブルが「そよ風のように街に出よう」でした。
そよ風のようにまちにでよう②
 その後、30年の時を経て現在は障がい者の人権を守る法律がたくさん作られ、介護者がいなくても当たり前のように「街」に出られるようになりました。当時の社会は、障害者を人間とみなさずヒトラーが人の命を「価値ある命と価値のない命」に分けてユダヤ人を虐殺し、障害者は戦時下では「価値のない命」という「優生思想」に基づき抹殺してきた歴史をひきづっていました。このような価値観を変える運動です。

 施設では女性障害者は子宮摘出をされました。ついに、彼女たちは生活保護を受けてアパートで独り暮らしを始めました。24時間の介護が始まりました。トイレ、入浴、買い物、料理、食事の手伝い・・・愛媛大学の門前で介護者募集のチラシ配り・・運動に必要な事は何でもやりました。私はある女性が生活保護が受給できるようになるまで娘と3人で自分の家で暮らすことになりました。彼女は歩けません。車いすを降りてからの移動は自分の両腕を足代わりに使って床を這いながら進みます。ベッドから降りて、私が5分で出来る洗顔・歯磨きは自力では2時間ほどかかります。いつも私が抱きかかえて洗面所へ移動していました。そしていつものようにしていたある日の朝です。
 娘を保育園に預ける準備と彼女の洗顔、歯磨き、朝食・・この時、彼女は「令子さん、早く会社へ行って。自分は施設では何もかも人にしてもらっていた。2時間かかっても自分一人で顔を洗い、歯を磨きたい。これが自分の求めていた自立生活だから。施設を出て一人暮らしを始めるのだから、健常者と同じように生活したい!洗面器にお水だけいれておいて。時間がかかっても一人で歯を磨きたい!」と言われ、障害者解放運動の原点を彼女に教えてもらいました。
 当時は若かったからできたような気がします。力もあったし運動を成し遂げたいという大きな目標が自分を動かしたかもしれません。それと、仲間が増えていったという現実が励みになったかもしれません。

 今年の夏「相模原事件」が起きた時の衝撃は言葉ではあらわせません。被害者となった障がい者の実名が報道されませんでした。これは、真の被害者は残された家族といわんばかりです。施設で暮らしていた人たちがいつの間にか『名前を伏せられてしまう社会に?』。私は長い運動の中で障がい者も同じ人間という社会になったと思っていましたが、それは表面的な所でしか進まず社会がまた逆戻りしていっているような不安を感じました。
そよ風のようにまちにでよう①
 
 本当の被害者は殺された障がい者ではなかったのか。彼らや彼女たちには人間として「名前」があったはず。それなのに「実名報道」できない、されない、何か大きな力が立ちふさがりはじめたのか。
そよ風のようにまちにでよう⑤

そよ風のようにまちにでよう⑥

 日本はどこへ向かっていくのか。3.11を経験し福島第一原発が事故をおこしたのにも関わらず原発再稼働、原発輸出政策をとる現政権。そして、安保関連法案を許してしまう選挙結果。このような時代に、この雑誌が間もなく終刊になるというニュースに対して無力感にぐさりとさされました。
そよ風のようにまちにでよう④

 障害者雑誌“終刊”重い問いかけ・・。めげていても進まない。合言葉『そよ風のように街に出よう』いつものように「問いかけ」には応えよう。出来るだけ応えていかなくては。