2017年08月

     12日~14日まで自分でお盆休みと決めて、故郷(静岡県・富士宮市)へ帰りました。4月に99歳で亡くなった母の初盆でもあります。高速道路でも、新幹線とローカル線でも3時間ほどかかりますが今回は電車の旅にしました。
    8月12日(土)】
    ・名古屋駅から静岡駅まで新幹線。そして静岡駅から富士宮駅までは特急ワイドビュー富士川号。乗り換え時間を利用して駅弁を購入。富士宮市に近づくほどにお天気が悪くなりいつもならば見える所に富士山がありません。少し寂しい~。
    (静岡駅で乗り換えたローカル線。車内での楽しみは駅弁!)
     29年8月13日故郷②

     29年8月13日故郷①
    (ワイドビュー富士川号から。富士川にはいくつもの鉄橋が架けられています)
     29年8月13日故郷④
    ・ローカル線の小さな旅を車窓の景色を見ながら楽しみました。富士宮の駅には姉が迎えにきてくれていて久しぶりの再開に嬉しかったです。実家に着くと沢山の草花が咲いていました。生前に母が住んでいた家、草花を見ると未だ母が「お帰り~」っと言って迎えてくれそうな感じになりました。
    (仏前にお線香をあげて、お墓参り。。お母さん、ただいまー。。)
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    (実家の周りに咲いている草花、本当に可憐です。。)
     29年8月13日故郷⑧

     29年8月13日故郷③

     29年8月13日故郷⑤

     29年8月13日故郷⑥

     29年8月13日故郷⑦
    (写真を撮っていると一台の車が止まり、窓からキュウリが渡されました。姉と見間違えたようです。なあんだ、令子ちゃんか!元気かい!どうやら姉の同級生のようです。ほんわかした一瞬の出来事でした)
     29年8月13日故郷⑨

    8月13日(日)】
    ・姉は晩年の母を在宅で見守ってくれました。生前の沢山の思い出話は朝まで続きました。売り言葉に買い言葉で、介護のお礼に姉に洋服をプレゼントすることに。市街へ出かけると「富士山浅間神社」が街の中心にあり、神社の中を富士山からの湧水を集めて流れる「神田川」が。相変わらず冷たくて透明な川の流れに郷愁を感じました。
     29年8月13日故郷⑪
    ・夜は姉の子ども家族が孫たちと一緒に全員集合。10人で夕食です。私も10人分のから揚げと桜エビのかき揚げ、サラダ、・・と料理の手伝いでクタクタになって食欲は減退。ついに夕寝。姉の孫たちは家中を遊び場にしてかくれんぼしたりピアノを弾いたり大騒ぎ。最後には私が横たわっているベッドにまで隠れにきましたがすぐに見つかってしまいました。。。
     29年8月13日故郷⑫
    ・世代が一つ代わりましたが子どもたちが狭い家の中全体を遊び場にして飛び回っている姿は、今も昔も同じ。
     今日も雨が降ったり止んだりで富士山は見えませんでした。 (*´ -`)(´- `*)  

     昨日の「語り部による戦争体験を聞く集い」は、今年の市平和事業推進委員会の事業の一つとして開催されました。同じ主催者により8月8日からは文化の家・展示室で「原爆写真ポスター展」が開催されています。語り部の集いの後にいってきました。
     過去に数回、8月6日の「広島平和記念式典」に1000羽鶴を折って参加してきましたが改めて見る原爆投下の惨状は刺激の強いものでした。しかし、事実をしっかりと見つめないと戦争で何が行われたのか心の中で風化してしまうと思い、写真をたくさんとりました。

    1945年8月6日「一発の原子爆弾が広島に投下されました!」
     29年8月12日原爆写真展⑩

     29年8月12日原爆写真展⑨

     29年8月12日原爆写真展⑦

     29年8月12日原爆写真展⑥

     29年8月12日原爆写真展⑤

     29年8月12日原爆写真展①
    広島では今も。。。
     29年8月12日原爆写真展⑫
    主催者が長久手で収集したものです。
     29年8月12日原爆写真展④

     29年8月12日原爆写真展③

     29年8月12日原爆写真展②
    平和推進委員会の皆さんの作品です。
     29年8月12日原爆写真展⑬

     29年8月12日原爆写真展⑪

     29年8月12日原爆写真展⑭
    多くの方々が来場していました。
     29年8月12日原爆写真展⑮

     29年8月12日原爆写真展⑯
    お借りしてきたビデオが絶えず上映されていました。
     29年8月12日原爆写真展⑰
    非核地帯=黄色 核保有地帯=黄緑色 
     29年8月12日原爆写真展⑧

     人類はこの世界地図を全て黄色にする力をその進化の歴史を見ると持っていると、地図の前で思いました。人類は核兵器をはじめとする全ての武器をこの世界からなくすことが出来ないのだろうか。世界地図を丸い地球に置き換えた時、地表の写真を見た時、そして子どもや孫に触れた時、人は武器を持ちたいと思うだろうか。生きている全てのものに触れた時、誰も武器が必要だなんて思わないだろう。そっと手にして大切にしたいと思うだろう。私はそういう人に政治をしてほしいといつも思っています。 *・゜゚・*:.。..。.:*・゜  *・゜゚・*:.。..。.:*・゜ *・゜゚・*:.。..。.:*・゜ 

     「語り部による戦争体験を聞く集い」に参加しました。今春亡くなった母からも戦時中の話は幼い頃からよく聞いていましたが長久手での戦争体験はどのようであったのか関心がありました。今回は市と戦争体験者でつくる市平和事業推進委員会の主催により2回目を迎えました。
     文化の家・光のホールは満席でした。普段は何気ない市政の話題を話す知人の姿が会場を見渡すと大勢席に座っていて、何故か緊張がほぐれてきました。隣市からきたという中学生が隣にいました。

    最初の語り部の近藤貞子さんは、委員会の吉田さんからの質問に答えるという形で車いすで舞台に登場しました。
     29年8月11日②
    ・13歳の時、自分と8歳と3歳の子どもを3人置いて父親が出征し突然親がいなくなった当時のことを克明に話してくれました。兵隊に行くのは30歳くらいまでなのに近藤さんの父親は39歳での出征で残された子どもはとても大変であった、と。
    ・26歳になるお孫さんの作文が入賞した話はとても印象に残りました。 
     私には平和がわからないから平和を説く資格がない。親子2代戦争を知らない。内戦のカンボジアの人は内乱が7年も続き廃墟の中で夢も希望もない。彼らの血の叫びを聞いたら平和ボケが覚めるかもしれない・・という内容が変わっていたので入賞したのではと話されました。
    與語時久さんは、戦時中は食料不足で紙芝居屋さんが来るとお小遣いではなく野菜を持って行き水あめをもらい見せてもらったことや、名古屋空襲のときは長久手の御嶽山から名古屋が明るく見えるほど空襲がひどかった話をしてくれました。
    永田宏さんは、「私の戦争体験」という題でA4、4ページにわたり書いてきてくれました。昭和15年4月~20年8月までの学徒動員であったことを詳しく話してくれました。(写 真)
     29年8月11日③
    與語守彦さん(83歳)は終戦時10歳。昨年の語り部であった同級生が亡くなったので代わりに今年応募したそうです。(写真:国民学校時代の通信簿を手にして語ってくれました)
     29年8月11日④
    ・国策で尋常高等小学校が「国民学校」にかわった最初の1年生であり、最後の卒業生であったため自分の経歴には「小学校卒業」と書けない。戦争中は長久手にも疎開してくる人が多く、自分の家は農家のため何とか食べれたが疎開者は食べ物がなく遠足のお弁当はサツマイモのみで、そのサツマイモさえも持って来れない人がいた・・と。
    ・何の為の戦争だったのか、尊い犠牲の上に平和国家がある。9条を持っていることは大切だと話されました。
    松原永吉さんは「異国に眠る父」と題してパワーポイントでご自分と奥様の戦争体験を話してくれました。
     29年8月11日①
    ・父親はシベリアで亡くなり、死亡告知書の紙一枚だけで遺骨もなかったそうです。1992年6月に75歳の母親を父親の眠るシベリアへ墓参に連れて行ったお話をしてくれました。
    (写真はシベリア墓参の様子を松原さんが絵にしたものです。)
    「極度な飢えと寒さ、過酷な労働そして病魔・・。この地獄よりのがれることできず。1945年凍土に捨て置かれる。故郷に帰るを夢見ること40数年間、風雪に晒される。あまりにも無念」
     29年8月11日⑤
    ・凍土を少し剥ぐと遺骨が姿を現したお話では、フィリピン、ニューギニアなど遠い異国の地に未だ眠っている遺骨にも同じ思いを持っていると語ってくれました。

     5人の語り部のお話以外にも語りつくせないたくさんの戦争体験があると思いました。長久手のように軍需工場のない村でもこのような辛い、無念な体験をされた方々がいることに私の心は愕然としました。語り部は「もう二度と戦争をしてはいけない」、「戦争には何の意味もない」と話されました。戦争を体験したりさせたりすることは絶対にしてはいけない、経験していなくても「語り継がねばならないこと」と、痛切に思いました。

     毎年8月10日は岩作(やざこ)安昌寺の観音祭り。九万九千日会とも言われこの日お参りすると9万9千もの良いことが起きると聞いたことがあります。私も毎年このお祭りに出かけます。参道の旧岩作街道には「岩作あんどんの会」が作った行灯が灯されます。
     本堂では法要が行われ、参道には行灯、広い境内では盆踊り・・幼い子ども連れから大人まで大勢の人々で賑わいます。

     岩作旧街道の民家前に灯されたあんどん~様々な形、絵に見入ってしまいました.
     29年8月10日安昌寺③
    ※知人の家です。約100年前の家を改装して住んでいます。
     29年8月10日安昌寺⑨

     29年8月10日安昌寺⑤

     29年8月10日安昌寺⑧

     29年8月10日安昌寺⑪
    ※アコーディオン奏者のCobaさん。。
     29年8月10日安昌寺⑩
    ※行灯の枠は木ではなく鉄筋です。鉄筋屋さんのギャラリー前。。
     29年8月10日安昌寺⑥
    ※現在も営業している電気屋さんの前。。
     29年8月10日安昌寺①

     29年8月10日安昌寺⑦

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    ※趣向を凝らした行灯ですね。
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     行灯に見とれて、安昌寺に着くと盆踊りは既に佳境に入っていました。
      文化協会の民踊部の会員も浴衣姿で笑顔で元気に輪になって!
     29年8月10日安昌寺⑫
    ※あ、この生け花も文化協会お花の先生の作品です!
     29年8月10日安昌寺⑬

     安昌寺のお祭りは、長久手市内でも最も古くから行われていて歴史を感じます。大きな盆踊りのやぐら、数々の出店、消防団員による交通整理、そして行灯。。。

     ところがお祭りを楽しんでいる人々の上に、突然雷と共に大粒の雨が容赦なく降りだしてきました。私は間一髪で免れましたが多くの参加者は浴衣も洋服も滝のような雨に濡れてしまいました。2週間前の北小校区の夏祭りの日はゲリラ豪雨で盆踊りは中止となり、これで2回目です。最近の気象の変化に不安を感じますね。
                                

      毎週土曜日夜のオーケストラの練習会場は文化の家であったり、福祉の家であったり、抽選で確保できた状況でかわります。最近は文化の家の音楽室での練習が多く、開館時間が午後10時までなので1時間多く練習できます。時間ギリギリに会場につくと真っ先に目に入ってきたのがこの大型楽器のケースです。一瞬圧巻されます。
    <チェロのケースは弦楽器と管楽器、打楽器が音楽室に勢ぞろいするとこのように廊下にはみ出してしまいます。それにしてもこの頃の楽器ケースはカラフルになってきました。私の友達はピンクのヴァイオリンケースに最近替えました>
     29年8月8日③

    定期演奏会まであと3か月となります。お盆も練習日です。流石に社会人・アマチュアオケなので参加者は少ないです。<休憩時間~>
     29年8月8日①

     ティンパニー(打楽器)が今日は持ち込まれていました。団内には楽器運搬係りが設置されて順番にローテーションを組んで当日担当係が早めに会場に来て運搬します。
     29年8月8日②
     このティンパニーには小さな思いでがあります。20年前に文化の家が建設されるときに私は町会議員でした。当時は隣町のオーケストラの団員でしたが会場にティンパニーがなく、団員が大勢で担いで毎回階段を上げ下ろししていました。この時の体験からピアノの他にティンパニーも文化の家に置いて頂きたいと要望をしてきましたのでオープン時からあります。長久手フィルも文化の家の提携事業として演奏会を行っているので事業上の必要な楽器として時々使用させていただいています。

     先週の練習日、久しぶりにティンパニーを見て、開館当時の小さな思い出が浮かんできました。 
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