「語り部による戦争体験を聞く集い」に参加しました。今春亡くなった母からも戦時中の話は幼い頃からよく聞いていましたが長久手での戦争体験はどのようであったのか関心がありました。今回は市と戦争体験者でつくる市平和事業推進委員会の主催により2回目を迎えました。
 文化の家・光のホールは満席でした。普段は何気ない市政の話題を話す知人の姿が会場を見渡すと大勢席に座っていて、何故か緊張がほぐれてきました。隣市からきたという中学生が隣にいました。

最初の語り部の近藤貞子さんは、委員会の吉田さんからの質問に答えるという形で車いすで舞台に登場しました。
 29年8月11日②
・13歳の時、自分と8歳と3歳の子どもを3人置いて父親が出征し突然親がいなくなった当時のことを克明に話してくれました。兵隊に行くのは30歳くらいまでなのに近藤さんの父親は39歳での出征で残された子どもはとても大変であった、と。
・26歳になるお孫さんの作文が入賞した話はとても印象に残りました。 
 私には平和がわからないから平和を説く資格がない。親子2代戦争を知らない。内戦のカンボジアの人は内乱が7年も続き廃墟の中で夢も希望もない。彼らの血の叫びを聞いたら平和ボケが覚めるかもしれない・・という内容が変わっていたので入賞したのではと話されました。
與語時久さんは、戦時中は食料不足で紙芝居屋さんが来るとお小遣いではなく野菜を持って行き水あめをもらい見せてもらったことや、名古屋空襲のときは長久手の御嶽山から名古屋が明るく見えるほど空襲がひどかった話をしてくれました。
永田宏さんは、「私の戦争体験」という題でA4、4ページにわたり書いてきてくれました。昭和15年4月~20年8月までの学徒動員であったことを詳しく話してくれました。(写 真)
 29年8月11日③
與語守彦さん(83歳)は終戦時10歳。昨年の語り部であった同級生が亡くなったので代わりに今年応募したそうです。(写真:国民学校時代の通信簿を手にして語ってくれました)
 29年8月11日④
・国策で尋常高等小学校が「国民学校」にかわった最初の1年生であり、最後の卒業生であったため自分の経歴には「小学校卒業」と書けない。戦争中は長久手にも疎開してくる人が多く、自分の家は農家のため何とか食べれたが疎開者は食べ物がなく遠足のお弁当はサツマイモのみで、そのサツマイモさえも持って来れない人がいた・・と。
・何の為の戦争だったのか、尊い犠牲の上に平和国家がある。9条を持っていることは大切だと話されました。
松原永吉さんは「異国に眠る父」と題してパワーポイントでご自分と奥様の戦争体験を話してくれました。
 29年8月11日①
・父親はシベリアで亡くなり、死亡告知書の紙一枚だけで遺骨もなかったそうです。1992年6月に75歳の母親を父親の眠るシベリアへ墓参に連れて行ったお話をしてくれました。
(写真はシベリア墓参の様子を松原さんが絵にしたものです。)
「極度な飢えと寒さ、過酷な労働そして病魔・・。この地獄よりのがれることできず。1945年凍土に捨て置かれる。故郷に帰るを夢見ること40数年間、風雪に晒される。あまりにも無念」
 29年8月11日⑤
・凍土を少し剥ぐと遺骨が姿を現したお話では、フィリピン、ニューギニアなど遠い異国の地に未だ眠っている遺骨にも同じ思いを持っていると語ってくれました。

 5人の語り部のお話以外にも語りつくせないたくさんの戦争体験があると思いました。長久手のように軍需工場のない村でもこのような辛い、無念な体験をされた方々がいることに私の心は愕然としました。語り部は「もう二度と戦争をしてはいけない」、「戦争には何の意味もない」と話されました。戦争を体験したりさせたりすることは絶対にしてはいけない、経験していなくても「語り継がねばならないこと」と、痛切に思いました。